おわび

やりたいことなんでも

切り捨てたことに嫉妬しない

 

はいこんにちは。

 

4月。わたしの務める会社にも、それはもう純粋そうな、まだ社会の中でスレていない新入社員が入ってきた。研修の一環で数人と話す機会があったのだけれど、それはもう見てとれるぐらいに緊張していた。

研修の一環というのは、先輩社員に普段の仕事内容を聞いてみよう!みたいなアレである。いや〜社内の人間相手なんだからそんな緊張しなくてもいいのよ、とこちら側に座っていると思ってしまうけど、入社して1週間も経っていなかったから当然といえば当然なのかなあ。

 

そんな中で、その中の1人が他の質問と比べて、結構はっきりとした口調で聞いてきたことがひとつあった。それが、「飲み会や、休日のゴルフのような付き合いはあるんですか?」みたいなもの。う〜ん、あのニュアンスだとたぶん、できればそういうことをしたくない寄りなのだろうなと思う。憶測だけど。

 

あまりびびらせても良くないし、かといって嘘を言っても仕方がないから、「部署や拠点にもよるけど、営業部署に関しては、あるところは結構あると思うよ。けど、年齢問わずやる人もいるしやらない人もいるし、結局人それぞれだよ。やらない自由もあるけれど、そういう付き合いができる人は可愛がられることが多いよ。」…みたいな感じで伝えた。

 

わたし自身は、所属部署や業務上そういうフィールドにいないから、外から見た印象しか話せないけれど、その範囲で言えばちゃんと本当のことを言えたと思う。でも、今書いていてようやく思い至ったのだけれど、新入社員に”人に可愛がられること”が持つとんでもないパワーの熱量はピンとこなかったかもしれないな。

 

まあとにかく、そんなことがあったのだ。

それにプラスして、最近もう嫌になってめっきり見なくなってしまったX、あと、わたしには地獄にしか見えないのだけれど、逆にごくたまに見に行ってしまうThreads。に、溢れかえるお気持ちポストなどを思い浮かべて、考えたことがある。

 

なんと言えばいいのだろう。近年、なにかを強制されて苦しんでいた人々がどんどん解放されていくのを感じる。それは間違いなくいいことなんだ。けれど同時に…これもなんと言えばいいのか、それによって保たれていた”なにか”は確かにあったんじゃないかとも思ってしまうのだ。

それは誰かにとってはいいものではなかっただろうし、それを一方的な見方から美談にしたような話にはしたくないし、聞いた時は気をつけたい。そして同調圧力みたいなものを肯定したいわけじゃあないんだけど。けどなんだろう、今は今で、息苦しさみたいなものは結局あるんじゃないか、って。

 

まあ要するに、しばしば言われる「義務を果たしていないのに権利ばかりを振りかざすやつ」になっていないかなあということを考えていた。

 

“やるにこしたことはない”みたいなことを、してもしなくてもいいという個人の自由はだいぶ与えられている…許されている?気はするけれど、そういうものができる人とか、乗り越えられる人とか、実践している人、それを自分の学びにできる人のことはみんなかわいがるし、「あいつやるやん」って思うような”好ましいとされること”までは、別に変わっていないんじゃないか。

 

結局どれだけ許されることが増えたって、人に愛される人と、なんか愛されない人っていうのは存在するし、そこにはなにか違いがあるのだ。許されることがイコール、みんなが愛されるようになるってことじゃないんだ。

むしろ、もっと残酷なのかもしれない。やっても咎めてくる人はいないし、環境も”それ”を許しているのに、”それ”をやっていたら静かに人が周りからいなくなっていく。だって周りの人には、その人と関わらなくてもいいという自由が与えられているんだ。

 

いま、例として人との関わりだとか、愛される、ってことを出したけれど、自分の生きたい生き方にそれが不要だと思うのならそれもいいでしょう。大事なのは自分の望む生き方がどういうもので、そのためには何が必要で何は不要かを、自分で考えることだよな。

 

この時代、自分が不要だと判断したことは切り捨てる自由がある。けれど、自分で切り捨てた選択肢があったとして、それを切り捨てなかった人と同じものが与えられないことに文句を言うのはやめにしないか。

 

これはネットの普及によって、顔も知らない、今後人生で直接関わることもないであろう人のことまでもが見れるようになったことの、悪い面なんだと思う。

 

世の中には本当にたくさんの人間がいて、人々がとる選択肢も本当にたくさんの分岐がある。SNSで人をたくさん見ることができるってことは、自分の手が及ばなかった選択肢を頑張っている人の、”発信”だけを見ることができるってことだ。

発信っていうのは、”そとづら”のもっともっと外側にあるものであって、不特定多数に発送するためにラッピングされたものということを、もう何年も前から散々言われてはいるけれど、忘れてはいけないよね。

 

あと、今のXやThreadsなんかは、開いたらまず『おすすめ』とかいう、誰かわからない人のお気持ちポストばっかり見せるようになってきたでしょう。具体的に特定のポストを見て思ったわけではないんだけれど、いろいろなお気持ちを見ていると、そういうことを思ってしまうのだ。

 

おすすめに出てくるってことは、自分と同じような世代とか、性別とか、そういう人たちが多く反応を示しているポストってことなんだろう。人はどうしてもネガティブな内容により共鳴してしまうから、そういうものが目立ってしまうだけで、そんな人ばかりではないと信じたい。

 

最初の話から一転してすっかりSNSの話になってしまったけれど、だからみんなネットを使うのはやめよう!とか、愚痴を書くのはやめよう!とか言うのは違うし、それはそれで不健全だ。そうではなくて、ちゃんと考えて選択しないと、本当に痛い目を見る気がする。この先どこかで、気づいた時にはもうどうしようもなく後悔する自分になっていそうな気がする。

 

もちろんそんなことは当然理解して、その上でネットの波に上手に乗っている人も、身近にだけでも結構いる。だから、これはあくまでわたしがわたしのために考える処世術みたいなものなんだ。そもそも、これがSNSという環境の変化によるものなのか、自分の変化によるものなのかは、実のところよくわからない。

 

結局のところ、”他の人ができることができない”ということを世の中がどれだけ許してくれても、ある意味では関心を持たれなくなっても、『他の人ができることができない自分』だっていうことが変わるわけじゃない。同じように、そこでいじけているだけだったら、誰かが責めようと慰めようと傷を舐め合おうと、あるいは見向きもされなくたって、そこにいるのは『ただいじけているだけの自分』なんだ。

 

だったら、じゃあ自分にできることはなんだって考え続けなくちゃいけない。そうやって自分で出した答えはいつか変わるかもしれない。けどそれでいい。

 

ウン年間社会人をしてやっとわかってきたことなのだけれど、意外と人にできることとか、人の適性っていうのは違う。人が当たり前のようにやっていることが自分には苦痛なこともたくさんあるし、自分にとっては楽しいぐらいのことでも、実は他の人がやりたがらないようなことだったということも、結構ある。

それって、”誰かが切り捨てたもので自分が切り捨てなかったもの”とも言えるわけで、そういうものは、手の届く範囲で色々な人と関わってみて初めて見えるものだったりする。

 

なんだかいつにも増してまとまりがない?まあいいか。

お相手はおわびでした、また今度。

努力って言葉は厄介だ

 

はいこんにちは。

“努力”って、本当に厄介なやつだと思う。

 

こいつは一体なんなんだろう。努力っていうのは立派な名詞であって、コトについている名前だ。でもモノの名前じゃないし、なにかひとつの行動を指すものでもない。その割に、少なくとも日本ではなかなか重んじられているコトな気がする。本当に、コイツは一体…なんなんだ…。

 

コイツに対してひとつ思うことがあって、それは「努力っていうのはそれを努力と認識したら努力になってしまって、努力ではなくなってしまう」ということ。なんということでしょう、一文に4回も努力という言葉が出てきたではありませんか。

 

なにかの記事にも同じようなことを書いた気がするけれど、努力という行いは確実に存在している。でも、それを”努力”として認識してしまったら、その瞬間”努力という名前がついたコト”になってしまうような気がする。…どういうこと?

もっと言葉を足して少し大袈裟気味に言ってみると、努力とされる行動は日々するべきだけれど、努力をするぞと意気込んだ瞬間に、それは義務としての努力になる、みたいな感じ。

 

英雄ってのはさ、英雄になろうとした瞬間に失格なのよ。

仮面ライダー龍騎』より

 

いま、義務になってしまうことをネガティブに捉えた言い方をしたけれど、たぶん義務で頑張れる人もこの世にはいるんだろう。でも、わたしは義務になると明確に頑張れなくなってしまうタイプだからそう思ってしまうし、義務で頑張れる気持ちとか体感が全くわからないのだ。

 

じゃあいま自分は、努力をしているかどうかは置いておいて、”どうしている”んだろう?ということを考えてみた。

まず第一に、あらゆる自分の行いを努力だと思わないようにしているのだ。思わないようにしているというか、努力という言葉を排除している、というのが近いかもしれない。

 

最近の暮らしの中で、コンスタントに続けていることと聞いてパッと浮かぶものは2つあって、まず1つは語学アプリのDuolingo。

英語学習は本当に趣味というか、あそびでやっている。海外に行きたいという気持ちもないし、仕事で英語を使う機会もなくはないけれど、専門で対応してくれる社員がたくさんいるから、困っているわけでもない。英語を解りたいなと思うのは、文化や言語に対する興味関心からだ。だから、趣味だし、あそびだ。

 

ということもあって、Duolingoに関しては質は二の次で、”続ける”ということを一番の目標にしている。通勤退勤で電車に乗っている間にやると決めて、とにかくやった。というか、それ以外のことをする・見るのをやめるようにした。そうこうしているうちに300日を超えたところなのだが、続けたことによるじんわりとした効果も実感しているから、電車に乗ったら自然にやっているようになっていた。

 

もうひとつは別の記事でも書いた、朝のジャーナリング

楽しいとか好きとかの気持ちでやっているのだと思う。もしくは、ジャーナリング”やっている状態”と”やっていない状態”の差がわかっているから、自然にやっている、みたいな。それは、やっているときの方が望ましいということを、心も身体も全身でわかっているからなのかもしれない。なんだかちょっと東洋思想っぽい感じがする。

 

わたしは自分のことを”同じことを継続することが苦手な三日坊主”だと思っていたのだけれども、その”わかっている状態”と、「この時間この場所でやる」ということが揃えば、案外続くのだろうか。そもそもが、自分のキャパシティにそぐわないこと、もしくはやり方…を、自分の暮らしの中に入れ込もうとしていただけなのかもしれないな。

本当に、努力ってやつは一体なんなんだろう。

 

ここまで書いていて思ったのだけれども、「努力と思わないようにしよう」っていう考えの中に、もうそもそも努力というものが存在してしまっているんだ。努力という言葉を排除していると言ったけど、だからわたしは『努力』という言葉を『継続』という言葉に置き換えている。努力は継続というわたしの思う定義の、そのこころはきっとこれなんだ。

そうか、『努力』って厄介なやつだと思っていたけど、厄介なのは『努力って言葉』だったんだ。わたしは言葉を使って考えがちだから、余計。

 

自分を知って自分に合った処世術のような、生存戦略のようなものに気づけたらいいなと思っているけれど、これもまた、言葉で認識したらその瞬間失格なのだ、少なくともわたしにとっては。

もはや思い浮かびもしないような、ささいな繰り返しが自分の暮らしの中にあるかもしれないし、そういうものが本当の、というか、純度の高い『努力』ってやつかもしれない。

 

いろいろ考えてはみたけれど、こうやって深く掘るのは”あそび”だから。普段は考えるよりも、からだが動くままにまかせてもいいのかもしれないね。

 

お相手はおわびでした、また今度。

とくせい「ムラっけ」

はいこんにちは。

本当に突然なのだけれど、わたしをポケモンにしたら特性は「ムラっけ」だろう。

 

まいターン のうりょくの どれかが ぐーんと あがって どれかが さがる。

ポケモンWiki

 

会社員としてどうなの、それは。と思うのだけれど、”いつも” ”毎日” ”やるべき仕事をコツコツと”、ができない。代わりと言っては何だけど、わたしの場合は、”びっくりするほど頑張れる時がある”そして”びっくりするほど何も手につかない時もある”。一定のリズムで頑張ることができないのだ。

 

とは言っても、業務が立て込んでいたらやるでしょう?と思うかもしれない。それはもちろんやる、やるのだが、そのあとのクールタイムは確定で待ち構えているし、なんなら無理をすればするほどクールタイム期間は長くなる。気がする。測ったことはないから、体感のはなしだけれど。

なにより、”びっくりするほど頑張れる時”の制限時間を超えて頑張ると、露骨に体調を崩す。ということを、つい先日、しばらく業務に追われ続けた結果胃を痛めたことで思い出したところだ。

 

だからどうと言うわけではない、正直にいうと、だから自分はダメなんだと言うつもりもない。いや、明らかに模範的な会社員ではないけれど。それはわたしの特性であって、実はわたしはわりと好きだし、たぶん同じようなタイプの人は少なくないんじゃないか。でも、だけれども、頑張れない時の自分に対する絶望感や罪悪感たるや。もう、すごいのだ。

 

みんなは日々「たいあたり(威力40)」をコンスタントに繰り出し続けているのだ。たまに日々「とっしん(威力90)(こちらもダメージを受ける)」を繰り出し続けている人もいるし。実際のところはわからないけれど、他人を見るとそういうふうに見える。

 

一方でわたしは「はかいこうせん(威力150)(1ターン休み)」タイプだ。ちなみに今は絶賛仕事を頑張れないターンなので、続く言葉はさらに弱気である。威力150もないんじゃないかしら。休みが1ターンで済んでいるかしら。みたいな具合に。

 

それでも一応働けているのは、ひとえに周りの人々の察しと理解のおかげ。パワーの出力が一定でないことは、わたしも(物理的に)叫んでいるし、”頑張れる時の頑張り”で評価してもらえているので、ありがたい限り。

一方でその分、頑張れない期間中の自分に対する…もうええか。

 

別のポケモンの特性で、「なまけ」というのがあって、それは行動自体が2ターンに1回になるというやつ。けれどやっぱりわたしは「ムラっけ」が近いと思う。

 

例えば、仕事で頑張ったら手につかなくなるのは仕事だ。他にやりたいことはいくらでもあるから、別のフィールドで走ることはできるのだ。たぶん、仕事をある一定頑張ったら仕事へのパワーが下がって、他のところのパワーが上がるのだ。まさにムラっけ。自分のエネルギーのバランスがどうあっても、拘束時間の比率は変わらないのが辛いところだけれど。

 

繰り返しになるが、これも自分の個性と受け止めているのだ。今のところ責められたことは一度もないし、みんな多かれ少なかれ、頑張れば疲れちゃうでしょう。それがちょっと顕著に出るタイプというだけ。だよね?

 

だから、ここからわたしにできること、考えられること、逆にそれを生かした道があるとしたら、その頑張れる時に、いかに「誰かの役に立てるか」を磨くことなのかな。

効率よく儲けるだとか、この商売は儲かるだとか、儲かるノウハウだとか、そういう見出しがわたしはやっぱりどうしても好きではなくて、いつも「絶対に見てやるもんか!」と思っているのだ。けれど、それってある意味では、そういう見出しばかりに意識がいってしまっているということだ。そんな中で忘れそうになるけれど、仕事っていうのは誰かの役に立つことをすることなんだ。

 

仕事っていうのはね、知らない誰かの役に立つことよ。お腹が空いた人にご飯を届けた。人が住む家をきれいにした。それは世の中にとって、確かに意味のあることだった。でもね、紘汰がインベスゲームで勝ったって、それで喜ぶのは紘汰とその友達だけよ。それは仕事とは言わない。ただの遊び。

仮面ライダー鎧武』より

 

わたしは副業をしていないし、今のところするつもりもないから、仕事といえば会社勤めの一点だけ。だから、少なくともその仕事の範囲でだけは誰かの役に立つってことができたらいいし、逆にその他のことは全部趣味なのだ。誰のためでなくてもいいのだ。その先の何かなんて存在すらしない。

けれど仕事にしても趣味にしても、身の丈を超えることをしようとするとこうやってストッパーがかかるのは、「オーバーヒート」を未然に防いでくれているのかもしれない。

 

このブログでやっているように、わたしは、言葉にすることで自分のことをわかりたいと思っている。でも、脳みそとか、内臓とか、筋肉とか、そういう言葉を持たない”わたしの身体”は、言葉を持つ”わたしの心や感情”以上にわたしのことを理解しているのかもしれないと思って、不思議な気持ちになるのだ。

 

と言った具合に、頑張れない時の心境をポツポツと書いてみたら、「だから、結局、ナニ?」という文章になってしまったけれど、誰のためでもないのだからこれでいいのだ。たぶん。

 

試しに『だ・である調』で書いてみたけれど、どうでしょう。敬語にすると文が長く長くなってしまうから、簡潔でいいかも。感情整理系はこっちの文体で書こうかな?

お相手はおわびでした、また今度。

モーニングページ改め、ただの朝ジャーナリング

はいこんにちは。

 

突然ですが、みなさんはモーニングページをご存知ですか?

news.yahoo.co.jp

 

各プロセスに目的や狙いがあるのですが、やることベースで言うと、毎朝A4サイズのノートに3ページ分思いの丈を書き殴るというものです。

 

実は以前、ちゃんとこのルールに則ってA3ノートに3ページ書いていた時期が一定期間あったのですが、結局やめてしまいました。書くことで己が整うような感覚はあったのですが、ある程度「最近いい感じだな」と思うようになるとやめてしまうのです。

あと、A3に3ページって結構…結構な量。そしてまずわたしの部屋にある机がサイドテーブルレベルのおきさしかないので書きづらいし、平日会社に行く前に3ページ書くのはなかなか難しい。

 

じゃあもうその継続を邪魔している要素を変えてしまおう。ということで、元々のコンセプトをガン無視した、ただの朝ジャーナリングが誕生しました。もはや朝に行うということと、ノートに手書きで正直に、心のうちを書くということしか継承していません。ですがこの『ただの朝ジャーナリング』にしてからというもの、なんと8ヶ月間続いています。三日坊主のわたしが!!

 

以下、今やっている朝ジャーナリングの簡単な説明です。

  • 朝、会社に着いてすぐ1ページ or 15分間を目安にノートに手書きで今の気持ちや考えていることを書く
  • 内容はなんでもよいが、人に見せないという前提で書く
  • ノートサイズはA5サイズを使用、途中でB5に変更
  • 基本平日は必ず書く、土日はノートを持ち帰る余裕があれば持ち帰ってやる(ちょっと重い)

 

こんな感じです。

まず、家で書く時間と場所が確保できない問題は、職場で書くことによって解決です。早起きは得意な方で、電車の混雑嫌いを極めた結果、始業の1時間以上前に出社しているので、朝出社後〜始業までは比較的自由な時間があります。

そして、ノートサイズと書くページ数も勝手に変更。基本1日1ページ弱です。もしくは15分以内。そこでスパッと終わります。あとは、無理をしないこと。元気がなくて、今日は書く気分じゃない…と思って、実際に書き出しても手が進まなかったら、その旨を書いて終わりにします。

 

つまり毎朝書けばなんでもアリってことです。ここまでフリーにしてようやく習慣化しました。何より、それによるおもしろさを感じているからこそ続いています。

 

わたしは考え事はエンターテイメントだと思っていて、大好きなのですが、特別頭のキャパがだだっ広いわけでもないのです。なので、頭の中にある”いま抱えている議題や疑問”を書き出して、一旦置いておくことで、また別のことを考えたり、違う視点から見たりすることができるようになります。

結果、書いて頭の中を吐き出していくことにより、そのアウトプットの流れの中で、頭の中にはなかった新しいキーワードが出てくることも多いです。これは、自分の中で発生したキーワードや言葉から気づきや教訓を得るタイプのド内向型のわたしにとっては、とてつもなくおもしろくてうれしいことなのです。なので、非常に親和性を感じる習慣だと思っています。

 

この習慣がついてから起こったいいこと集なのですが、まずはあからさまに文章が読めるようになりました。元が酷すぎたのもあるとは思いますが、量のある文章への抵抗がだいぶ緩和されました。

この『ただの朝ジャーナリング』は昨年の8月からスタートしたものなのですが、秋頃にはなぜかめちゃくちゃ読書するようになりました。今まで「読書できる人間になりてえ…」と言うだけだった人間が、だいたい月3冊ほどですが、本を読むようになったのです。すごくないですか。

また、「あの漢字が出てこない😭」ということもだいぶなくなりました。これはシンプルに、手で文字を書くという習慣が作用していますね。

 

あとはやっぱり、自分の考えの整理もちょっと小慣れてきた気がします。なにより、考えることが楽しい、熟考することが苦痛ではなくてむしろ好きなんだとわかったのはとても大きいことでした。

 

考え事って、その場で答えが出るようなものではないことが多くて、なんなら答えのないものの方が多いかもしれません。けれど、そういう議題に対してその場で答えが出ないこと、そういうフワッとした状態で置いておくことにためらいがなくなりました。

けれど、それは諦めることとは違います。その時はわからなくても、疑問をずっと抱えて温めておくみたいなイメージです。そうすると、時間が経って全然関係ないタイミングで、全然違うキーワードと結びついて、「あれってこういうことか!?」と腑に落ちる気づきにつながったりする。

その熟成させたいものを置いておくキャパが、ノートに書き出して忘れてもOK!とすることで、無限に広がる感じがするです。楽しーーーーー!!!!!!

 

そして、本にも言えることだと思うのですが、デジタルと違って”どのあたりにどんなことを書いたのか・書いてあるのか”をぼんやり把握できるところがわたしはすごく好きです。

 

今の悩みは、ちょっといい厚めのB5のノートを使っているので、持ち運びがちょっと大変なこと。もう少し手帳みたいなノートにしたいけれど、少なくともB5ぐらいの面積は欲しいなあ…。

 

という、ただの自分メモでした。元々書いて考えるタイプだったので、自分にはとても合っているな〜と感じる習慣です。

 

お相手はおわびでした、また今度。

IとNは揺るがない。

はいこんにちは。

みんな大好き16personalitiesのお時間です。

 

以前から思っていたことがありました。それは「時間をおいて性格診断をしたら変わるのか?」という、素朴な疑問。

それなら試してみましょうや、ということで、23年8月、23年10月、24年4月にそれぞれ下記サイトで行った無料診断テストの結果と、それから汲み取れるかもしれない何かについてのお話です。

www.16personalities.com

しかし4月(このあいだ)までしばらく忘れていたことがまるわかりですね。

 

最初に言っておきますが、わたしはこの診断をガチガチに信じているわけでもなく、診断結果のアルファベット4文字を自分のラベルとして使う気もさらさらありません。そうではなくて、そこから見えるものはあるか?ということを考えるお遊びです。

そして、16personalitiesと有名なMBTIはややこしいですが別物なので気をつけましょう。

 

まずは全3回の結果がこちらです。

  • INFP(仲介者)/ 2023年8月
  • INFJ(提唱者)/ 2023年10月
  • INTP(論理学者)/ 2024年4月

 

全部違うやないかい。

な〜んだやっぱりこんな診断で人となりがわかるわけないよなあ?と終わらせることもできるのですが、10月のわたしはいい仕事をしており、その内訳のパーセントもスクショにおさめていました。8月の結果に関しては残っていなかったため、10月と4月の内訳のみですが、下記のような結果でした。

 

  • INFJ-A: 内向型(I) 76%、直感型(N) 81%、感情型(F) 54%、計画型(J) 53%、自己主張型(A) 51%
  • INTP-T: 内向型(I) 85%、直感型(N) 79%、思考型(T) 56%、探索型(P) 58%、激動型(T) 56%

 

パーセントで見ると露骨に分かることがあります。明らかにIとNだけ揺るがなさすぎ、ということ。そして逆に、他の2つ(語尾のAorTも含めたら3つ)は全て50%台を漂っています。つまりどっちでもねえ。この診断において、この2-3つの観点から見たわたしの性質には特に特徴がない、という解釈をしました。

特徴はないし、その時々によって変えることもあるし、気分やコンディションで変わることもあるのでしょう。なので、現状の試験回数は3回ですが、今後診断をしたとしてもINFP、INFJ、INTP、そしてINTJのどれかになるだろうなという予想ができます。

 

わたしという人間を考えてみるとき、これらのうち一体どれが真に自分が該当するグループなのかとか、感情型か思考型かとか、計画型か探索型かとかは正直どうでもよいのです。それよりも、どうあがいても内向型&直感型であること、ここについて考えて理解することを通して、自分を知ることの方がタメになるのではないか。

 

と、いうようなことを友人と3人で話していました。ここからは友人たちとのだべり記録です。

わたしと、友人2人のうち1人は何回やってもISFJ(擁護者)になる生粋の擁護者。もう1人はINFP(仲介者)になったりINFJ(提唱者)になったりする子です。

 

じゃあわたしとその子は似た性質なのか?と言えば、擁護者いわく、「似てるっちゃ似ているところもあるけれど、根っこにあるものが違う気がする」とのこと。うわー、めっちゃおもろーと思いました。

次はじゃあその根っこの違いの正体は何なんだろうと話していたのですが、「そういえばお前めっちゃ人を覚えるよな」と言われました。例えば会社にいるとして、2人とも自分と関わりがあって初めてその社員のことを認識するらしいです。一度自己紹介されてその場では認識しても、仕事で関わりがなかったら同じ会社にいようと忘れてしまうと。

 

たしかに言われてみれば、結構人を覚えるのは得意かもしれません。意識したことすらなかったし、別に覚えようとして覚えているわけでもないのですが、何回か見かけたら顔はぼんやり覚えるし、人事発令などで見た人の名前の字面も結構覚えちゃいます。

職場でも「あー、名前の字面だけは知ってます」とよく言うのですが、自分が会話をしたことがなくても、どこかのタイミングで顔と名前が一致したら、もうほぼ忘れることはないです。

 

いやいや、そのぐらいみんなできるよ!お前の周りに偶然人を覚えるのが苦手なやつが集まってるだけだよ!という可能性も大いにありますが、でも少なくともみんながみんなそうじゃないんだあ…という発見。

 

擁護者の子は、あからさまに自分とは違うんです。考え方とか、なにを行動に起こすかとか。でももう1人の子とは、同じ部分もあるし違う部分もある、けどそれを言葉で説明できないような状態でした。

かろうじてその場で発掘できた、わたしとその子の違いみたいなものがひとつありました。その子は自分でも自覚がないぐらい、人に興味がないらしく、家族に言われて初めて、「そう言われると…たしかに人に興味ないんかな…?」的な感じらしいのです。

 

一方で、わたしは人の内なるもの…思想や信念みたいなものにとても興味があります。

わたしにとって、外見や社会的な立場、どんなことを成した人なのかは二の次、三の次。わたしは人がそれぞれどんな考え方をして、それがどんなポリシーになって、その結果どういった行動になって外に出てくるのか、ということが知りたい。知りまくりたい。それは、その人の内側にしかないものである以上、わたしにとっては「その人の己」ではなくて、「わたしにとっての他」になってしまう。それでも構わないのです。

 

たぶん、わたしのいちばんの興味の対象は自分なのだと思います。自分を知るための材料を得るために人を知りたい。だから、人が教えてくれた「その人の己」が実はちょっと正確ではないものであったり、カッコつけてしまったものでも構わないのです。自分ってどんなヤツ?という問いに対して、輪郭みたいな、形めいたものを見たいのであれば、他人と違うところを見ていくしかない。そのためのヒントがほしい。

 

おわかりでしょうか、この考え方や興味の対象にあらわれまくっている内向性ド優勢具合

 

ユングは内向性を「主観的な心的内容を通じて人生に向き合う姿勢タイプ」と定義し、外向性を「外的な対象に興味を集中させる姿勢タイプ」と定義した。

外向性と内向性 - Wikipedia

 

内向性の定義を調べたとき、あまりにも内向性をネガティブなものとして捉えた記事が目についてゲンナリしてしまいましたが、元の定義は『生きる姿勢』の種類の話。そういった記事は外向的な人が書いているのでしょうか。知らんけど。

わたしは自分の内向性に誇りを持っていますし、どれだけバカにされようと、見下されようと、自分にはできない行動ができる外向性を持つ人々のことをリスペクトしていきたいです。

 

とにかく、わたしの場合はI(内向性)とN(直感、理想主義的)に象徴されましたが、自分の性質や特徴をよく知ることは大切です。自分とは対極な性質の人が得意とするようなことを求められた時、難しいと思ったりストレスを感じるのは当然だし、それをそうでない人にわかってもらうのは難しい。

逆にわたしが意識すらしていないぐらい普通にしていることでも、みんながみんなできるわけじゃないことなのかもしれない。

 

と、まあいろいろと考えたりするのですが、こうやって思考をめぐらせることは、わたしにとって”最高に楽しいお遊び”なのです。もしかしたらこれも、”みんながみんなそうではないこと”かもしれないのです。

 

最後は、仮面ライダークウガより、わたしが最高に大好きな名言で締めさせていただきましょう。

『人の気持ちになるなんて誰にもできませんよ。思いやることなら、なんとかできますけどね。』

 

お相手はおわびでした、また今度。

フィルムカメラと歩く・0本目

はいこんにちは。

 

先日ふと現代の、そして自分の中の写真のあり方みたいなものについて考えた結果、人生初のフィルムカメラを買ってきました!

購入したのはこちら、Kodak(コダック)のフィルムカメラ EKTAR H35 ハーフフレーム。カラーは迷いに迷ってセージにしました。

 

フィルムカメラに馴染みがなく、どんなものかもわかっていない状態のため、こちらに決めるまでにいろいろと調べました。このカメラの”ハーフフレーム”とは、通常のフィルムの2倍量撮影ができるものだそうです。ということは、通常のフィルムの2倍写真が撮れる!ど、どういうこと??

 

つまり、現像した時に、1枚の写真の中に2コマ分写真が入ってくるようです。1枚ずつでも現像できるようなのですが、拡大した感じのちょっとボケた感じになっている…ような印象でした。webサイトを見た感じでは。そのボケ感がなんか、小さい頃に見ていた写真の記憶の雰囲気そのままという感じで、かわいい。

フィルムも安いものではないし、かといって写真を撮るのをためらってしまうのも本末転倒。ハーフフレームでたくさん撮ってみようということでこのカメラに決定しました。

ネットを見ていると、2shot/1枚もおしゃれでいいなあと思ってきました。1回の撮影タイミングで2枚撮るという自分ルールにしてみるつもりです。

 

さてフィルムカメラで写真を撮りたいと思い立ったのは金曜日のこと。ネットで調べるとヨドバシに在庫アリとのことだったので、会社帰りの足で早速買いに行きました。どこにあるか分からず若干迷ったのですが、普通のカメラコーナーとは別の、アルバムや額縁の方にちゃんとフィルムカメラのコーナーがありました。

 

店員さん曰く「ハーフタイプはスマホ転送サービスをやっているところが少ないのでご注意ください」とのこと。ありがとうございます!承知の上でございます😤。

写ルンですを最後に触ったのはおそらく20年ぐらい前のこと。開封したとき、デ…デジタルじゃないカメラだ…と思いました。フィルムの入れ方もなにもわからないので、まずは取説確認しながらセットアップと動作確認からしていきます。

 

まずは空シャッターをきって動作しているかを確認。か、空シャッターって、ナニ。裏の蓋を開けて、ギアを回してからシャッターを押すと切れます。なるほど、いきなりただボタンを押すだけじゃダメなのね。

 

お次はフラッシュの確認をします。電池を入れてフラッシュチャージを開始。そして響き渡るあの懐かしいチャージ音。このキュイーーンって音!めちゃくちゃ懐かしい!写ルンですでもあった!!初回はチャージに時間がかかると書いてあありましたが、1分ぐらいでランプが点灯しました。

いけっ、フラッシュonの空シャッター📸!超まぶしい。思ったよりちゃんとフラッシュしてくれました。近くで見るのはやめましょう。これで本体の動作確認はおわりです。

お次は初めてのフィルム装填。ツメにフィルムの穴をひっかけるのにちょっとだけ苦戦しましたが、先端さえ引っ掛かればあとは自動的にカメラ側のギアにもひっかかってくれました。

 

最後にカウントが1になるまで巻き上げダイアルを回してシャッターをきる、を繰り返します。2回シャッターをきったら1になりました。これで準備完了です!!

 

と、思ったのですが、いざ外に出て2回シャッターをきってみたときの感想は、これカウント進んでる!?わかりづらい!というものでした。

アレ?さっき「1になった!ここから開始や!!」と思ったのに、そこから2回撮影をした(つもり)の段階でカウンターが動いているのかわからない。厳密に言えばちょっとずつ動いているのですが、今が何枚目に相当するかが正確にわからない…もしかしたら認識が数枚ずれているかも。

 

先ほどまで、「わたしの計算によると、1回に2枚撮影することで非常にエモい2shot/1枚が完成するのです…🤓」と思っていましたが、これ思った通りの2枚組になるのか!?

まあ…いっか!これも何が起こるかわからないアナログの面白いところですね。無意識に、撮れたものを思い通りに配置して…というデジタル脳が出てしまっていました。

 

さて、そこからあと2回ほどシャッターをきって思ったことがあります。

フィルムカメラを調べているときに、どのwebサイトも口を揃えて書いていたことがありました。それは『どう撮れているかは現像してみてのお楽しみというのもフィルムカメラの醍醐味』ということ。

 

そりゃあそうだと、頭ではわかっていたこと、もしくはわかったつもりになっていたこと。けれど、実際に撮影した写真がどう撮れているかがすぐに結果として出てこないというのは、なんだかものすごく粋に感じるものでした。

撮ってから現像するまで実際どれぐらいかかるんだろうと、シャッターを4回きってようやく実感として思ったのです。

 

ハーフタイプを買ったので、72回シャッターをきることができます。けれどフィルムは安くない、なので消化試合的ではなくて、「あ、今撮りたい」と思ったときに撮るようにしたい。

となると、今撮った写真を見れるのは72回シャッターをきって、それを写真屋さんに持って行って、現像してもらったものがあがってきて、ようやくなのです。

それっていつになるんだろう?1ヶ月、2ヶ月先かもしれない。デジカメやスマホと違って、任意のタイミングで撮った写真群を見返すこともできない。

 

それがイヤだ、面倒くさい、とは不思議と(?)思いませんでした。ただ、いかに自分が即時性のなかで生きていたのかが浮き彫りになったような感じでした。

 

例えばスマホで撮ったら、画面に映っていたものがそのまま固定されるような感覚です。それはもう、シャッターをきる前からもう撮影結果がわかってるようなもの。

普段、すぐに結果を求めないようにと思って気をつけてはいるのですが、意識すらしていないレベルで、レスポンスやなにか形のあるものがすぐに出てくるのが当たり前になってしまっているのを感じました。

 

たぶん、頭ではわかっていたことであって、本当はわかっていなかったことなのです。実際に体験や体感として得ることで、ようやく真に心得る、つまり納得する感覚。

昔の人は言いました。百聞は一見にしかず。まさかフィルムカメラに触ることで、こんなにもいろいろと感じることがあるとは。

 

4月13日。この日撮り始めたフィルムを現像にもっていくのは、一体いつになるのでしょう。

現像に持って行くとき、このフィルムにどんな写真をおさめたかを、どれだけ把握できているのでしょう。きっと1枚1枚眺めて、ああこんな写真撮ったな〜とか、ここが素敵と思って撮ったんだよな〜とか、なんで撮ったんやこの写真!とか、したりするのです。楽しみ。

 

フィルムを1本使い切ったら、こんな写真が撮れた!ということをまた書きに来たいと思います。

お相手はおわびでした、また今度。

“続かない”を続けてみないか?

はいこんにちは。

 

突然ですが、何かを継続することが得意な人はこの世にどれだけいるのしょうか。

わたしは苦手です。めちゃくちゃ、苦手です。というか、できません。何かひとつこれをやるぞ!ということを長く続けることができない。絵に描いたような三日坊主なのです。

 

興味のあること、やってみたいことができては消え、たまに実際にやってみることも多いのですが、おお〜楽しかった!で終わってしまいます。

やってみたいことはたくさんあって、それはもう時間が全然足りないほどにあるのですが、そのひとつひとつが長く続く何かにならないことに、ものすごくコンプレックスのようなものを感じていました。

 

それもあって、わたしは”継続”というものをとてもとても尊敬しています。

努力を「努力と意識して行うこと」はしたくないというのが個人的ポリシーなのですが、努力というものは確実に存在していて、それは継続することと同義であると思っています。

 

昨今はSNSでいろいろな人を見ることができるようになりました。見ることができるようになってしまいました。

人気クリエイターやYoutuber、彼らがどれだけ作品作りや動画作りを続けてきたのかが、ポスト数や投稿動画数で一目で見えてしまいます。しかも、それは数字という明確なものでも見えてしまいます。

もちろん、彼らの頑張りは目に見えるものだけではないでしょうが、人がどれだけの段数の階段を登ってきたかがわかるようなものです。

 

それと比べて、自分は?なにをしてきたんだろう。なにか生み出せてきたのか。

これはやってみたいし続けてみたいと思って、SNSの専用アカウントを作って、しばらくしたら見なくなって、やらなくなって、やろうと思ったのにまたできなかった…というヘンな後ろめたさで、結局なにもできずにアカウントを消したことは数えきれないほどあります。

 

いやいや、彼らと違って、仕事ではなくてあくまで趣味なのだから、どれかひとつをずっと続けなければいけないなんてことはないと、わかってはいたのですが納得はできていなくて、それができない自分はとんでもなくしょうもなくて、何者でもない存在なのです。

 

と、思っていました。

しょうもない存在であることに変わりはないのですが、それでもいろいろやって考えて続かなくて、を繰り返していたら、いろいろなことに興味をもって、「やりたい!やってみよう!どうすればできるんだ!?」って行動ができているのは、それはいいことなんじゃないか?と思うようになってきました。

 

そしてさらに、それってグラフィックとかタイポグラフィとか陶芸とか、そういう一つの手法や分野の単位ではないけれど、なにかを作り出すとか、表現するとか、表現技法の追求…みたいな、もう少し広い範囲においては割と絶えず”やってみている”んじゃないか?と思うようになってきました。

 

「なにをやっても続かない」をもうずっと続けてきたのです。たぶん。

 

追求するモノやコトの一貫性とかそういう、自分から見た他人のカッコよく見える在り方みたいなものに気を取られていたけれど、そんなものはなくてもいいんじゃないか?って、ようやく納得ができそうなのです。

 

SNSのアカウントってよく『〇〇アカウント』みたいに、ジャンルで分けるじゃないですか。それが当たり前になりすぎてしまって、あれもこれもやったらブレブレだな…と思っていたけれど、”わたしがやってみるものづくりや表現”っていう一点だけで十分だよなって。

何者かになろうとしていたのかもしれないです。けれど、本当は自分が楽しく幸せに生きるためには、何者かであるかどうかなんて、たぶんそんなに大事なことじゃなかったのです。

だから今はこのまま、その時々に自分が興味を持っていることをなんでもやってみようとちゃんと思えています。このブログもそのひとつです。

 

何を始めても続かなくて、そんな自分が好きじゃなくて、いろんなアカウントを作ってやってみて続かなくて消して…を繰り返していました。でもこれからは、なにに挑戦しても、続かなくても、絶えずそんなことをしている自分であることだけは継続させていきたいです。

 

何ヶ月間が空いても、また気が向いた時にやったり行ったりでいいじゃない。

そうです、絵に描いたような三日坊主なのです。上等じゃないですか。なにかをやってみている証拠じゃないですか。せっかくならそう、プロの三日坊主になるぐらいの心意気でどんどん手を出したいものです。

 

お相手はおわびでした、また今度。