おわび

やりたいことなんでも

切り捨てたことに嫉妬しない

 

はいこんにちは。

 

4月。わたしの務める会社にも、それはもう純粋そうな、まだ社会の中でスレていない新入社員が入ってきた。研修の一環で数人と話す機会があったのだけれど、それはもう見てとれるぐらいに緊張していた。

研修の一環というのは、先輩社員に普段の仕事内容を聞いてみよう!みたいなアレである。いや〜社内の人間相手なんだからそんな緊張しなくてもいいのよ、とこちら側に座っていると思ってしまうけど、入社して1週間も経っていなかったから当然といえば当然なのかなあ。

 

そんな中で、その中の1人が他の質問と比べて、結構はっきりとした口調で聞いてきたことがひとつあった。それが、「飲み会や、休日のゴルフのような付き合いはあるんですか?」みたいなもの。う〜ん、あのニュアンスだとたぶん、できればそういうことをしたくない寄りなのだろうなと思う。憶測だけど。

 

あまりびびらせても良くないし、かといって嘘を言っても仕方がないから、「部署や拠点にもよるけど、営業部署に関しては、あるところは結構あると思うよ。けど、年齢問わずやる人もいるしやらない人もいるし、結局人それぞれだよ。やらない自由もあるけれど、そういう付き合いができる人は可愛がられることが多いよ。」…みたいな感じで伝えた。

 

わたし自身は、所属部署や業務上そういうフィールドにいないから、外から見た印象しか話せないけれど、その範囲で言えばちゃんと本当のことを言えたと思う。でも、今書いていてようやく思い至ったのだけれど、新入社員に”人に可愛がられること”が持つとんでもないパワーの熱量はピンとこなかったかもしれないな。

 

まあとにかく、そんなことがあったのだ。

それにプラスして、最近もう嫌になってめっきり見なくなってしまったX、あと、わたしには地獄にしか見えないのだけれど、逆にごくたまに見に行ってしまうThreads。に、溢れかえるお気持ちポストなどを思い浮かべて、考えたことがある。

 

なんと言えばいいのだろう。近年、なにかを強制されて苦しんでいた人々がどんどん解放されていくのを感じる。それは間違いなくいいことなんだ。けれど同時に…これもなんと言えばいいのか、それによって保たれていた”なにか”は確かにあったんじゃないかとも思ってしまうのだ。

それは誰かにとってはいいものではなかっただろうし、それを一方的な見方から美談にしたような話にはしたくないし、聞いた時は気をつけたい。そして同調圧力みたいなものを肯定したいわけじゃあないんだけど。けどなんだろう、今は今で、息苦しさみたいなものは結局あるんじゃないか、って。

 

まあ要するに、しばしば言われる「義務を果たしていないのに権利ばかりを振りかざすやつ」になっていないかなあということを考えていた。

 

“やるにこしたことはない”みたいなことを、してもしなくてもいいという個人の自由はだいぶ与えられている…許されている?気はするけれど、そういうものができる人とか、乗り越えられる人とか、実践している人、それを自分の学びにできる人のことはみんなかわいがるし、「あいつやるやん」って思うような”好ましいとされること”までは、別に変わっていないんじゃないか。

 

結局どれだけ許されることが増えたって、人に愛される人と、なんか愛されない人っていうのは存在するし、そこにはなにか違いがあるのだ。許されることがイコール、みんなが愛されるようになるってことじゃないんだ。

むしろ、もっと残酷なのかもしれない。やっても咎めてくる人はいないし、環境も”それ”を許しているのに、”それ”をやっていたら静かに人が周りからいなくなっていく。だって周りの人には、その人と関わらなくてもいいという自由が与えられているんだ。

 

いま、例として人との関わりだとか、愛される、ってことを出したけれど、自分の生きたい生き方にそれが不要だと思うのならそれもいいでしょう。大事なのは自分の望む生き方がどういうもので、そのためには何が必要で何は不要かを、自分で考えることだよな。

 

この時代、自分が不要だと判断したことは切り捨てる自由がある。けれど、自分で切り捨てた選択肢があったとして、それを切り捨てなかった人と同じものが与えられないことに文句を言うのはやめにしないか。

 

これはネットの普及によって、顔も知らない、今後人生で直接関わることもないであろう人のことまでもが見れるようになったことの、悪い面なんだと思う。

 

世の中には本当にたくさんの人間がいて、人々がとる選択肢も本当にたくさんの分岐がある。SNSで人をたくさん見ることができるってことは、自分の手が及ばなかった選択肢を頑張っている人の、”発信”だけを見ることができるってことだ。

発信っていうのは、”そとづら”のもっともっと外側にあるものであって、不特定多数に発送するためにラッピングされたものということを、もう何年も前から散々言われてはいるけれど、忘れてはいけないよね。

 

あと、今のXやThreadsなんかは、開いたらまず『おすすめ』とかいう、誰かわからない人のお気持ちポストばっかり見せるようになってきたでしょう。具体的に特定のポストを見て思ったわけではないんだけれど、いろいろなお気持ちを見ていると、そういうことを思ってしまうのだ。

 

おすすめに出てくるってことは、自分と同じような世代とか、性別とか、そういう人たちが多く反応を示しているポストってことなんだろう。人はどうしてもネガティブな内容により共鳴してしまうから、そういうものが目立ってしまうだけで、そんな人ばかりではないと信じたい。

 

最初の話から一転してすっかりSNSの話になってしまったけれど、だからみんなネットを使うのはやめよう!とか、愚痴を書くのはやめよう!とか言うのは違うし、それはそれで不健全だ。そうではなくて、ちゃんと考えて選択しないと、本当に痛い目を見る気がする。この先どこかで、気づいた時にはもうどうしようもなく後悔する自分になっていそうな気がする。

 

もちろんそんなことは当然理解して、その上でネットの波に上手に乗っている人も、身近にだけでも結構いる。だから、これはあくまでわたしがわたしのために考える処世術みたいなものなんだ。そもそも、これがSNSという環境の変化によるものなのか、自分の変化によるものなのかは、実のところよくわからない。

 

結局のところ、”他の人ができることができない”ということを世の中がどれだけ許してくれても、ある意味では関心を持たれなくなっても、『他の人ができることができない自分』だっていうことが変わるわけじゃない。同じように、そこでいじけているだけだったら、誰かが責めようと慰めようと傷を舐め合おうと、あるいは見向きもされなくたって、そこにいるのは『ただいじけているだけの自分』なんだ。

 

だったら、じゃあ自分にできることはなんだって考え続けなくちゃいけない。そうやって自分で出した答えはいつか変わるかもしれない。けどそれでいい。

 

ウン年間社会人をしてやっとわかってきたことなのだけれど、意外と人にできることとか、人の適性っていうのは違う。人が当たり前のようにやっていることが自分には苦痛なこともたくさんあるし、自分にとっては楽しいぐらいのことでも、実は他の人がやりたがらないようなことだったということも、結構ある。

それって、”誰かが切り捨てたもので自分が切り捨てなかったもの”とも言えるわけで、そういうものは、手の届く範囲で色々な人と関わってみて初めて見えるものだったりする。

 

なんだかいつにも増してまとまりがない?まあいいか。

お相手はおわびでした、また今度。