おわび

やりたいことなんでも

努力って言葉は厄介だ

 

はいこんにちは。

“努力”って、本当に厄介なやつだと思う。

 

こいつは一体なんなんだろう。努力っていうのは立派な名詞であって、コトについている名前だ。でもモノの名前じゃないし、なにかひとつの行動を指すものでもない。その割に、少なくとも日本ではなかなか重んじられているコトな気がする。本当に、コイツは一体…なんなんだ…。

 

コイツに対してひとつ思うことがあって、それは「努力っていうのはそれを努力と認識したら努力になってしまって、努力ではなくなってしまう」ということ。なんということでしょう、一文に4回も努力という言葉が出てきたではありませんか。

 

なにかの記事にも同じようなことを書いた気がするけれど、努力という行いは確実に存在している。でも、それを”努力”として認識してしまったら、その瞬間”努力という名前がついたコト”になってしまうような気がする。…どういうこと?

もっと言葉を足して少し大袈裟気味に言ってみると、努力とされる行動は日々するべきだけれど、努力をするぞと意気込んだ瞬間に、それは義務としての努力になる、みたいな感じ。

 

英雄ってのはさ、英雄になろうとした瞬間に失格なのよ。

仮面ライダー龍騎』より

 

いま、義務になってしまうことをネガティブに捉えた言い方をしたけれど、たぶん義務で頑張れる人もこの世にはいるんだろう。でも、わたしは義務になると明確に頑張れなくなってしまうタイプだからそう思ってしまうし、義務で頑張れる気持ちとか体感が全くわからないのだ。

 

じゃあいま自分は、努力をしているかどうかは置いておいて、”どうしている”んだろう?ということを考えてみた。

まず第一に、あらゆる自分の行いを努力だと思わないようにしているのだ。思わないようにしているというか、努力という言葉を排除している、というのが近いかもしれない。

 

最近の暮らしの中で、コンスタントに続けていることと聞いてパッと浮かぶものは2つあって、まず1つは語学アプリのDuolingo。

英語学習は本当に趣味というか、あそびでやっている。海外に行きたいという気持ちもないし、仕事で英語を使う機会もなくはないけれど、専門で対応してくれる社員がたくさんいるから、困っているわけでもない。英語を解りたいなと思うのは、文化や言語に対する興味関心からだ。だから、趣味だし、あそびだ。

 

ということもあって、Duolingoに関しては質は二の次で、”続ける”ということを一番の目標にしている。通勤退勤で電車に乗っている間にやると決めて、とにかくやった。というか、それ以外のことをする・見るのをやめるようにした。そうこうしているうちに300日を超えたところなのだが、続けたことによるじんわりとした効果も実感しているから、電車に乗ったら自然にやっているようになっていた。

 

もうひとつは別の記事でも書いた、朝のジャーナリング

楽しいとか好きとかの気持ちでやっているのだと思う。もしくは、ジャーナリング”やっている状態”と”やっていない状態”の差がわかっているから、自然にやっている、みたいな。それは、やっているときの方が望ましいということを、心も身体も全身でわかっているからなのかもしれない。なんだかちょっと東洋思想っぽい感じがする。

 

わたしは自分のことを”同じことを継続することが苦手な三日坊主”だと思っていたのだけれども、その”わかっている状態”と、「この時間この場所でやる」ということが揃えば、案外続くのだろうか。そもそもが、自分のキャパシティにそぐわないこと、もしくはやり方…を、自分の暮らしの中に入れ込もうとしていただけなのかもしれないな。

本当に、努力ってやつは一体なんなんだろう。

 

ここまで書いていて思ったのだけれども、「努力と思わないようにしよう」っていう考えの中に、もうそもそも努力というものが存在してしまっているんだ。努力という言葉を排除していると言ったけど、だからわたしは『努力』という言葉を『継続』という言葉に置き換えている。努力は継続というわたしの思う定義の、そのこころはきっとこれなんだ。

そうか、『努力』って厄介なやつだと思っていたけど、厄介なのは『努力って言葉』だったんだ。わたしは言葉を使って考えがちだから、余計。

 

自分を知って自分に合った処世術のような、生存戦略のようなものに気づけたらいいなと思っているけれど、これもまた、言葉で認識したらその瞬間失格なのだ、少なくともわたしにとっては。

もはや思い浮かびもしないような、ささいな繰り返しが自分の暮らしの中にあるかもしれないし、そういうものが本当の、というか、純度の高い『努力』ってやつかもしれない。

 

いろいろ考えてはみたけれど、こうやって深く掘るのは”あそび”だから。普段は考えるよりも、からだが動くままにまかせてもいいのかもしれないね。

 

お相手はおわびでした、また今度。