おわび

やりたいことなんでも

読書感想『現代思想入門』

はいこんにちは。

タイトルにもある通り、こちらの本を読んだあとの心持ちを書いてみようと思う。

『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

 

実はこの本は数ヶ月の間積読していた本だった。以前、非常にとっつきやすいバキ風の哲学入門本を読んで、もっと知ってみたいなあと思って買ってきた本だった。

 

本屋で見つけてパラパラと軽く目を通してみた時は、読めそうだし興味湧く内容だぞ!と思ったのだ。けれど、やっぱりこういう思想や哲学の本は、示したいことのニュアンスになるべく沿ったものにしようとすると、どうしても言い回しや言葉選びが難解になるのだと思う。

 

話は逸れるけれど、読書初心者からすると”難しい本”と”読みやすい本”の区別すら満足につかない。

 

本を読んでみて初めて、これは難しかったなとか読みづらかったなとか、すごく読みやすくてサクサク読んでしまったということが体感として分かる。けれどそれがどうしてなのかの理由がよくわからない。

そんな中で、まだ数冊ではあるが思想や哲学の本を読んでみて、「なんでわざわざそんな難しい言い回しをするの」ということが少しだけ分かった気がしている。

 

まあ、上にすでにもう書いてしまっているのだけれど、わかりやすい言葉や単純な文というのはきっと、例えるなら大雑把な分類みたいなものだ。

 

より多様な人に伝わる代わりに、「厳密にはちょっとニュアンスが違うんだけれどね」ということが起こるんだろう。それを、言いたいことのニュアンスにより近くて適切な言葉を選んで文章を作ると、複雑で難解と感じるような文章になるのかもしれない。

 

語彙力というのはそういうときに便利なものだと思う。自分が伝えたいことをより”そのまま”に近い形にして、相手が伝えようとしていることをなるべく”そのまま”に近い形で認識できるように。

 

かと言って、単純な文が悪いもので複雑な文が良いもの、と言いたいわけではないし、単純か複雑かの0か100かで考えるのは極端だ。あらゆるものはその濃淡の中のどこかにいるのだから、「これはこうだ!!」と思ったときこそ冷静に、その次には「いや、待てよ」と続けたい。

 

人はわからないことに名前をつけたり、分類したり、整理すると安心するから、ついそういうことをやってしまうけれど、果たしてそれはいかがなものなのだろう。

 

この本も、序盤ではそういった二項対立をまずは認識するという内容から始まった。

何かと何かの二項対立の構図になっていないかを意識して、そのどちらかであるという判断を一旦留保する。そこまでは、そうだよねーと思いながら読んでいたのだが、さらにそれは”泳がせておくもの”、らしい。

常に流動的であると思うべきであって、何かのタイミングで、たとえば「良いもの寄り」に留まることはあるかもしれないけれど、それも次の瞬間には違うところに向かって動き出すかもしれないという感じ。

 

哲学・思想の超入門者としては、「二項対立になっていないか意識しようねー」の先に「しかもそれ時と場合によって動くよ」という展開というか、言い回しみたいなものが待っていることに、すげえー!となったのである。語彙力が絶望的なのだが。

 

今更だけれど、この本には本当にいろいろなところからスポットライトを当てて、現代の、特に西洋、フランスの思想家・哲学者が論じたこと、の読み解き方を教えてくれている。なので、印象に残ったところをピックアップして書いていると、全然違う話題になってしまうのはそういうわけである。

 

さて、わたしはいつも、読んだ本から1ヶ所、ココ!という文章を決めるようにしている。今回はここに決めた。

そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していくのが人間の発達過程なのです。教育とはまず、制限なのです。その最初にして最大の行為が、自分が名前で呼ばれ、そして周りのものの名前を教えられることです。「これは何々である、それ以外ではない」というのはまさしく制限です。

現代思想入門』150ページ

 

人間はそもそも過剰であって、その嵐のような過剰なものたちをどうにか制限していくのが人間の発達過程なのだと。

 

これを読んだときいちばんに思ったことがある。クリエイターとかアーティストがよく、子供は素晴らしくて、大人はつまらない、みたいに言うけれど、そういうことなのかなということ。

 

つい、今まで生きてきた中で得たものがあると考えてしまうし、昔よりも今の自分や今の時代の方が持っているものは多いと思ってしまうけれど、そもそもが前提として過剰なのだという。

 

そしてその中で受けていく教育。教育とは何?と聞かれたら、教えること??とバカ正直に答えると思う。だって「教えて育む」と書くのだ、教育という字は。そして教えることというのは、なんとなく”与える”ようなイメージがある。そして制限には”奪う”ようなイメージがある。けれど、教育とは制限なのだと。

 

うーん、なんだか文字にしようとすると混乱してきた。教育とは、何かを教えられること/知識を与えられることで、「何かは何かである」と言う以外の道を制限するということ/過剰すぎる幅や可能性を奪うことでもある。

 

今、教育とは与えることor奪うことという二項対立で考えている自分がいて、それは見方や言い方を変えれば与える〜奪うの間のどの辺りにも来る可能性がある。いや、むしろ表裏一体と言うべきなのか?わ、わからん…。

 

文章を読んでいるときは、ふんふんなるほど、と思って、頭では書いてあることを掴めている感じがするのだけれど、それで自分の頭の中はどんな感じ?と書こうとすると、グッチャグチャになってしまう。悲しいし恥ずかしいけれど、今のありのままの状態は今しか書けないだろうから、そのまま書いてみた。

 

という、印象に残った一文を決めておいてなんだけれど、他にも励まされた考え方があって、それは「全ては運動のただなかにある」というもの。

 

何かその時の”やること”が完成形であるなんてあり得ないし、今や今の言動みたいなものは未完成で不完全なものでいい。というか、それが当然であると。よく「この言動や文章は一貫性がないかなあ」とか考えてしまうけれど、途中の段階なのに一貫性があるかないかなんて認識できたもんじゃない。

 

今はどこかわからないどこかに向かう最中だから、意味とか理由とかを考えすぎずに、とりあえずやってみなよ。ということだ。すごく励まされる。

 

と、いいつつも実はこの本、今のわたしには難しかった。半分も理解できただろうかと思ってしまう。けれど、もう少し後にもう一度読み返して、今よりはちょっと理解できるようになっていたらうれしいもと思う。

 

お相手はおわびでした、また今度。

思想でわたしを打ちのめしてくれ

 

はいこんにちは。

 

昨年の秋頃から少しずつ本を読むようになって、ブクログに登録してから読んだ本がようやく20冊を超えた。まだまだ読書をするようになって駆け出しの身だが、今考えていることのメモをしておく。

 

本を読んで、気分が高揚するというか、ぞくぞくするような気持ちになると、この本を読んでよかった!と思う。それはだいたい、その本に込められた思想であったり、メッセージであったり、話の流れや作り方が美しすぎる、と感じるとき。

 

読み終わった後に、「うわーーーーー、わたしの知識とか思想とか考えつくことなんて、まじで浅はかでちっぽけじゃん…」と、打ちのめされるような本が好きな気がする。今のところ。ど、読書マゾ…?

 

でも、なんなんだろうと思うことがあって、文章ベースで打ちのめされたいのなら、SNSだって同じことなはずだ。けれど、Xとかスレッズとか、そういうお手軽短文系のSNSでは、”すごいひと”を見たら、なんか凹む。

 

以前どこかで、『最も幸福度を下げるSNSはインスタ』っていうのを見たことがあるけど、わたしはインスタ上で劣等感を感じたことはほぼない、ような気がする。というか写真でのアピールにあまり興味がない。あと、そもそも知り合いの近況しか見ない。

 

「わたしの及ぶところなんてちっぽけじゃん…」っていうのを、対象と距離がある状態で思えるとき、その打ちのめされ方は健全に作用している気がする。距離感の問題なのだろうか。

たとえば、実際に面と向かった距離感でそれを感じると、逆にそれは学びのチャンスだ。実際に背中を見て尊敬できるところを肌で感じることができる。

それに、近くで見ていると、大体の人にはプラスに作用しているところとマイナスに作用しているところがあるはずで、この人も人間なんだなあって思える。こういう実際の距離感での関わりは人間と人間の関わりなんだろう。

 

なんとなくだけれど、そうすると本との関わりは作品との関わりであって、SNSで見る誰かとの関わりは、ブランディングされた誰かとの関わりになるのだろうか。SNSに関するモヤモヤは、まだ今のわたしでは消化しきれない。

 

それはさておき、わたしは読書に何を求めているんだろうと考えていた。昨年までほとんど読書をしなかったけど、今はしばらく本を読んでいないと「本読みてェ〜」という気分になる。それまで、日常的に本を読める人のことがわからなかったけれど、「お菓子食べてェ〜」ぐらいの感覚なんだなと思った。いや、みんながみんなそうかはわからないけども。

 

多分なのだけれど、本格的に、習慣的に?文字で考えるようになってからだ。それから、人の書いた文章を読むことへの興味関心がぐっと強くなった。

 

文字ベースで、ヒントになる思想や自分に刺さるキーワード、なにか心にひっかかる疑問や見方をいつも探している。もともと、名言だとか作品に出てくるセリフだとか、そういう”1フレーズ”がものすごく印象に残ったり、力をもらったりするタイプではあったから、もしかしたらある程度は適性があったのかもしれない。

 

自分が生み出せるオリジナルの言葉や考え方なんてなくて、できるのはせいぜい自分が気に入った言葉や考え方を反復したり、混ぜたり、組み合わせたり、そうしてできたオードブルみたいなもの。けれど、何もしないよりは、盛り付けたオードブルを見て、「このメニュー多すぎやろ、好きやな自分」とツッコミを入れた方がまだ、自分のことがちょっとわかって楽しい気がする。

 

同時に、一方で、そうやっていろいろと考えすぎるのは危険でもある気がする。

いまのわたしは、自分の基準を大切にしようと思っているけれど、それって言葉や文字で、わたしが自分と呼ぶなにかの輪郭を引いているだけだろうし、形が見えてきたらそれが絶対的なものだと思いかねない。

 

自分探しだとか、自分軸だとか、そういう言葉をしばしば聞くけれど、それってどこかに”確固たる自分”や”本当の自分”っていうものが存在しているという前提の言葉だ。

 

自分というものがあるとして、それは明日からでも変わっていって当たり前のものだと思いたい。だからこそいまどんなことを考えているかをこうして書いていって、考えたことや思想をいつ忘れてもいいようにしておきたい。というわけで、今は思うことをひたすら書き連ねていっている。

 

考えて忘れて、また考えて忘れて、そうやっていろんな人の思想に触れたり、いろんな人と会ったり、いろんなところに行ったりしたい。「お前なんてちっぽけな塵のひとつでしかねえよ!」と何度でも打ちのめして、どうかわたしが思い上がらないようにしてほしい。

 

お相手はおわびでした、また今度。

メトロック感想、あと熱血になりたいわたしとか

ねっ‐けつ【熱血】

熱い血潮。また、血がわきたつような激しい情熱。熱烈な意気込み

デジタル大辞泉

 

はいこんにちは。

 

今年もメトロックの時期がやってきた。

メトロックは、夏の日差しや暑さが本気で苦手なわたしがギリギリ耐えられる時期の開催で、参加アーティストも好きな系統の国内著名バンドが多いという、唯一の野外フェスである。

 

参加したのは今年で3年目。体力的に毎年1日間のみ参加しており、今年も1日目のみ行ってきた。過去2年間は天候が悪かったが、ようやく雲一つない晴天のもとで開催されるメトロックを経験できた。天気の心配がないだけでとてつもなく気持ち良い。

 

もともとバンドに詳しいわけでも音楽に詳しいわけでもなくて、職場でラジオがかかっているから有名な曲や人気の曲はわかる。言ってしまえば「ミーハー」とかって呼ばれてしまうやつだ。

 

でも、だからこそフェスに行きたい。

だって、ミーハーだしニワカだから単独ライブに興味があっても怖くて行けないし、わたしよりもそのアーティストのことが好きなファンが行くべきだとやっぱり思ってしまう。たぶん、これは杞憂なんだろうし、アーティスト側からすれば「そんなことねえよ!!」なのだとも思うけれど。

そういう場に足を踏み入れるためには、本当に好きとか、何回も何曲も曲を聴いているとか、何かしらの資格や実績じみたものが必要…みたいな気持ちに駆られてしまうのだ。陰キャだから。

 

だが!いろいろなアーティストが参加するフェスは、箱ではなくて広場であってステージだから、「あんまり曲知らないけど、後ろの方からちょっと聞いてみる?」が許されているような気持ちになれる。今このバンドは結構好きだよーと思うのは、フェスで生で聞いたのをきっかけに普段から聞くようになったバンドが多い。

 

と、もはや誰も改めて言うことはないぐらい当たり前のフェスの良さを語ったところで、今回見た人たちを軽くメモしてみる。

 

まずは一番大きいステージであるBAY FIELDにて、この日トップバッターのフレデリックフレデリックは今年初めて生で見るバンドのひとつで、楽しみにしていた。

関西人ならではのおもしろおかしく盛り上げてくれるMCや煽りが良くて、BAY FIELDに出るアーティストの中で唯一Mステに出演経験がないとか、トップバッターだからどうせ帰る頃にはみんな忘れてるんやろおお😭!?とか言いつつ、終わって帰る時になんかフレデリックを聞いてしまうような、思い出してしまうような、そんな風にしてやりますよ!!みたいに言っていたのがカッコよかった。

ラストがおそらく一番有名な曲である『オドループ』だったのだが、カスタネットの手拍子のところがみんなできていて、すごく気持ちよかった。

 

次は打首獄門同好会、以降”打首”と略させてもらう。

安定の午前中のBAY FIELD出演、感謝である。3年連続で見ることができている唯一のバンドだ。打首はいつ何時でも打首で安心する。フェスでよく見るから曲も聞くようになって、ちょっとずつ曲を覚えてきた。

好きな曲で、フリも覚えている『死亡フラグを立てないで』をやってくれたのだが、これがいちばん楽しかった。知っている曲だけでも、フリを合わせられるのはやっぱり気持ち良すぎる。これが現地のいいトコ。

 

その次はSUPER BEAVER。こちらも初めて生で見るバンドなのだが、その中でも比較的普段から曲を聞いている寄りのバンドなので楽しみにしていた。

のだが、想像以上にその情熱に焼かれてしまい、もうすっかり(いい意味で)打ちひしがれてしまって、呆然というか、ショックというか、とにかくすごい衝撃で感動だった。 いちばん好きな曲である『美しい日』をやってくれてすごくうれしかったのだけれど、雲ひとつない晴天をバックにみんなが手拍子をする美しい日がもう、あまりにも美しい光景で涙が出そうになった。

1曲ごとぐらいに煽りというか、マイクコメント(で合っているのか?)というか、いろいろと言葉を投げかけてくれるのだ。そのどれもが温度が高くて、情熱的だった。真ん中も外側も後ろの方も、見にきている人間1人1人を全員を巻き込もうとするのが伝わってきて、バンドは詳しくないけれど、ザ・バンドマン!!って感じた。

全部は覚えていないけど、「もうすぐ20年、いろいろあったけど、4人だけで作る音楽のつまらなさに気がついてしまった」とか、「愛とかなんとか、そんなダサいことを胸張って言うのがバンドマンだ」みたいに言ってて、超クールだった。あと、出演が終わって捌けていく時に、柳沢さんが最後まで深くお辞儀をしていたのも。

 

その次は、WurtS。実は知らないアーティストだったのだけれど、丘にある2番目に大きいステージのGREEN HILLが気持ち良くて好きなので、後ろの方で座って盛り上がっている様子をぼんやりと眺めていた。

最後の『分かってないよ』だけ、ラジオでたくさん流れてたから知っていた。このフェスに行ってはじめて、この人が歌っているのかあと認識した。こういう出会いがあるから、いろんなアーティストを見れるフェスっていいよねと思う。

 

最後はPEOPLE 1。も、初めて生で見るので楽しみにしていた。

まずは、時間帯がバンドにぴったりだった。GREEN HILLは特に夕方がすごくきれいなのだけれど、そこに夕方〜日没が似合うアーティストをステージのトリとして持ってきてくれたなあと感じた。

日没直前ぐらいの『DOGLAND』は赤い照明もあって超カッコよかった。どうやらボーカルの片方の人が喉の調子が悪かったらしい。それもあってドイさんが「歌える人歌っていいよー」ってユルく呼びかけてくれて、それ以降みんな結構一緒に歌っていたのがすごくいいなあと思った。

フェスとかライブって、一緒に歌いたくなるけど、C&Rのところ以外歌うのは良くないかなあとなんとなく認識している。だから体調不良の偶然だったとしても、アーティストが「歌っていいよ」って言ってくれて、その曲を好きでいつも聞いているようなファンたちが一緒に歌って盛り上がっているのはすごく、「いいなあ」と思った。

あと個人的に、タケウチ(敬称略)のドラムがめちゃくちゃパワフルでカッコよかった!パワー!

 

と、いったところである。

 

それで、帰りのシャトルバスを待っている時に思ったことがあって、バンドマンとはこうあるものみたいなことはわからないけれど、今日見たバンドはみんな熱血だったなということ。

 

熱血っていいなって思った。うまく言葉にできないけど、本気でなにかをやるっていうのは自分っていうものを外に開いて、それに言い訳なんてしないで、それによって自分が傷つくリスクもなにもかも請け負う覚悟みたいなものが必要なんだと思う。それが、誰かになにかを伝えることなんだったら余計。

 

熱血っていう言葉やシーンに触れることは、大人になるにつれて減っていった。

子供の頃、学生の頃、少なからず”見ている人の心を動かす・感動させる姿であること”を求められていた頃があったはずだ。だから、昔は熱血とか、熱血っぽいものってあまり惹かれなかったどころか、もういいよと思っていたのだけれど、今この年になって、「なんかいいなあ、熱血ってすごいなあ」と思っている。

 

彼らは「自分はこうあればいいと思っている」みたいなことを、胸を張って言う。それぞれのバンドの背景は全くと言っていいほど知らないから、いち来場客が感じたことっていうだけなのだけれど。

 

それは平和であれとか、愛が伝われとかそういう、世界とか自分以外の誰かに対する理想とか願いみたいなものかもしれないし、一方で「Mステ出してくれよお!」っていう、これは…何て言うんだろう、欲望?つい目を背けることが安全牌としがちな願望も全部、お茶目な顔をしながら、でもやっぱり胸を張って言う。そしてそれを、言葉以外の方法でもめいっぱい表現する。音楽とか、態度とか、なんでも。

 

それってすごくカッコいい。クールでありたいとも思うけど、内面は静かに熱血でありたい。どうすればそうなれるんだろう。

 

ここからは完全にわたしという人間の性質上の話だ。

つねづね感じていることがある。〇〇になりたいと思うと叶わないということ。「英雄になろうとした瞬間に失格」なのであって、でも〇〇になりたいという憧れの気持ちや、目指す姿を見ることは間違いなく大事だ。

 

「こうなりたい」と思っては、その都度諦めて一回忘れるということ…を続けることが必要なんだと思う。誰かの〇〇な姿を「いいなあ、ああなれたらなあ」と思うことがいいことなのは本当。でも同時に「〇〇になるぞ、そのためにこんなことをするぞ」をしたら失格になることも本当なんだと思う。

「〇〇になりたい」という言葉になるところに置いておくのではなくて、言葉にはならないぼんやりしたところに「〇〇っていいよな」っていうのを放り投げておく。それが無意識の意識とか行動に出てくる…かもしれないし、何にもならないままかもしれない。

 

だから何かになるためには、何かになれない自分にぶつかって諦めるという道に、いつか何かに近いところにいる自分になっている可能性がある…と思っている。

想像でしかないけど、“何者かになるための何か”をしてなった自分のことを、本物じゃないと思ってしまうと思うんだよな、厄介だから。

 

もっと目的なんてなく、やりたいこととか、自分がこれだと思ったことを都度やる、ことをやり続ければいいんだ。まあ、それがなかなか難しいのだけれど。

 

お相手はおわびでした、また今度。

中学校だけ思い出せない

はいこんにちは。

このGW後半戦は毎日予定もりもりの日々を過ごしたので、しばらくはその備忘録になる。

 

さてさっそくだが、少し前、なんのきっかけでそう思ったかは覚えていないのだけれど、ふと「中学校の記憶ってあんまりないなあ」と思ったタイミングがあった。わたしの中にある”学校”の風景のなかでなぜか一番強いのは、校舎から体育館に続く半外の廊下…通路?の景色。なのだけれど、これが小学校だったか中学校だったかが思い出せない。

 

それがものすごく不思議だった。知っているはずなのに思い出せないというか、断片的な景色やイメージの記憶はあるけれど、それがうまく結びつかない感じ。

普通だったら、それぞれの断片的な記憶はきれいに結びついて、小学校|中学校|高校と別の建物や風景を形作って頭の中で区別されるのはずなのだけれど、それをしようと思うと、途中で結びつかなくなって、途中まで形作られた景色が崩れ落ちていく感じ……うわっ、わたしの文章 ポエミーすぎ…!?

 

とにかく、特にこと中学校の時に過ごしたはずの風景や景色が本当にあいまいで、思い出せなかった。だから、次帰省するときは意味もなく中学校まで散歩しようと決めていて、GWの帰省でそれを実行することができたというわけだ。

 

実家を出発して、中学生の時いつも歩いていた道をそのまままっすぐ歩いた。本当に不思議なのだけれど、その道も、途中までは頭の中で思い出せるけれど、ある一定のところからはなぜか景色が思い出せなかった。

だから、歩いて先の道が見えてくるたびに記憶が呼び覚まされるような、これまためちゃくちゃ不思議な感覚だった。道順を知っているのに道を知らないというか、もしかしてこれは”記憶喪失プチ体験”みたいな感じなのだろうか。

 

いざ中学校の門の外まで着いてみても、近くにこの施設があったなあ!という気持ちと、こんな施設あったっけ?という気持ちが半々…いや、確かにあったのは理解できているのだけれど、あまりにも記憶から抜け落ちていたことが信じられないという気持ち、というか。中学校の周りをぐるり1周歩いてみたけど、やっぱりここに通っていたんだという気持ちと、全然知らない中学校を見ているような気持ちが半々だった。

 

ちなみに、なぜかわたしの中に強烈に残っていた体育館に続く通路は中学校のものだった。それを見てきた今でもスッと記憶が繋がらない。なんだ、これ。わたしの脳は中学校のことが嫌いなのだろうか。

小学校は実家から割と近いから、たとえば買い物帰りとか、普段から通って見かけることがあったけど、中学校は中学生の3年間しかその近辺に行くことはほぼなかった。高校になったらもうだいぶ自我的なものができあがってきていたからなのか、覚えていることも多い。わからないけれど、中学生の時の記憶は、前には小学生の記憶、後には高校生の記憶があって、なんというか記憶の”しまわれ方”が雑だったのかもしれない。

そう、だから母校に来てみた実感としては半々だったし、中学校のまわりを歩いている自分がいま何歳になったとか、今は何年だとか、考えてみると頭が混乱してくる感じがした。

 

わたしは、毎日違った道を歩けたら素敵だなと思いながらも、眠い朝・疲れた夕方には手グセ(足グセ?)で同じ道を通ってしまうタイプである。だから、普段何気なく暮らしていたら味わうことがない感覚で、すごく面白かったのだ。

 

この体験はなんと言えばいいのだろうと考えて、タイムスリップ…も、当時から時間が経っているということはわかるから少し違うなと思った。やっぱり、自分で言った表現ながら『記憶喪失プチ体験』というのがいちばんしっくりきている。

 

またこういう体験をしたいけれど、そもそも自分が忘れている”何か”を特定するって難しい気がする。昔住んでいた場所に行って、昔歩いた道を歩いてみるのがいちばんかもしれない。

 

お相手はおわびでした、また今度。

今度こそ、家計簿を

はいこんにちは。

唐突だが幾度となく家計簿に挫折した人間の叫びを書きたいと思う。

 

今度こそ家計簿を、つけたい。と、思って続いた試しがない。

日常的に記入する時間をとろうと思うと億劫だったり普通に忘れていたり、かといってまとまったタイミングでまとめようと思うと、それをすっかり忘れて1ヶ月ぐらい普通に経っているのである。悲しい。アプリで記入していたときは、多少の期間続いたことがある。が、キャッシュレスが進むにつれて、カード連携と口座連携が重複するのでは…?とかを考えるのが面倒になった。

 

手書きでもアプリでも、どこかのタイミングで一定期間記入するのを忘れていたりサボってしまったりしたが最後、そんな”自分ができなかった”ことの証である家計簿なんてまあ、見たくないのである。そうして続かない、が、少しするとまた家計簿をつけて収支を把握しておきたいなあ、とか、本当にそろそろお金と向き合わなければ…とか思うのだ。以下、繰り返し。

 

今回またそうやって思ったのには理由というか、きっかけがある。今欲しいと思っているものがあるのだが、高くて買おうか諦めるか、どうしたものかと迷っている。こういうとき収支が把握できていれば、最近支出抑えられていたから思い切って買おう!とか、最近お金使いすぎだから諦めようとか、判断材料にできそうなのになあと思ったのだ。

 

そんなこんなで、まずGoogleに叩き込んだワードは『家計簿 続かない』である。

そうして出てきたサイトたちは口を揃えてこう書いていた。「続かない人はアプリを活用しましょう!」。それで、それを見ていた時に思った。アプリはアプリで、続かない要素がある。いや、もっとしっかりと表現するならば、アプリはアプリで、自分にとって続かない原因になる要素がある。

 

手書きでもアプリでも、まず自分(の性質)と家計簿の間柄を邪魔する要素は何か考えて、それを徹底的に排除した道を探らないと、何度でも同じ結末を辿ってしまう。さて、何がわたしと家計簿の仲を邪魔しているのか。

 

まず家計簿アプリは、カードや口座と連携すれば勝手に記録をしてくれるのが非常〜に便利だ。けれど、だからこそ見返さない。見返そうと思えば見返せるけども。あと、上にも書いた通り、複数のカードや口座を登録していると重複しているような気がして、落ち着かない。もしかしたらそんなことはないのかもしれないけれど、それを調べるのが………億劫。

 

あと、そういう機能がついているものはだいたい無料でも支出カテゴリーが細かく設定されていて、それでいて無料ではカテゴリーの編集ができなかったりする。カードの記録で大体どのカテゴリーか読み取ってくれるのだが、微妙なブレや、たまに弾き出される”未分類”が気になる。そこまでできるのならちゃんとキレイに分類して??と思ってしまう。いや、十分ものすごい機能なのだけれど。

このあたりが、自動で記録してくれる機能つきアプリの個人的”かゆいところ”だ。と、カッコよく書いたが、要するにわたしには使いこなせないということである。

 

けれどアプリに関して、いちばん自分に合っていないと感じるのは機能の方ではない。最初に書いた通り、そもそもアプリで記入しても、見返さないのだ。どれだけ使ったかを見返して把握するためにあるのに、肝心のそれをしようという気にならない。たぶん、記入したことで満足してしまうのだ。グラフも自動で出てるから、それを視認しただけで、なんとなく振り返った気になってしまう。

 

けれどそれって、意味がない。やっていてもやっていなくても同じだ。だから、自分が真に続けることを納得している状態になっていなかったのかもしれない。

残念なことに、そもそも家計簿をつけることに特別目的があるわけではない。節約はできたらいいけど、めちゃくちゃ困ってるわけでもない。というか、わたしは元々お金や数字と向き合う適性があまりないのだ。できれば考えたくないし。

 

この後わたしがどう考えるか、もうお分かりであろう。

そう、「結局、手書きなんじゃね?」である。

 

わたしの性質の話になるが、本当に”毎日コツコツ”が苦手なのである。そしてこれはもはやヘキの話になるが、自分が作ったもの、書いたもの、描いたものを、「見返したくなる出来」にまで持っていけた時、そしてそれを見返している時、もうとてつもない快楽物質が分泌される。目には見えないけれど、たぶん。

そして、”コツコツ”ができないわたしが、それでも今までに少しずつ記してきたものたちを見返す時の全能感たるや。ここだ。たぶんわたしは何事においてもこの「気持ちいい」を目標に、地図を描くべきなのだ。

 

紙の本もそうだが、ノートに手書きの良いところは、なんとなくパラパラできることだ。見返す率は断然高い。これは完全に好みの話である。最近、少しだけでもスマホやアプリから離れようとするアナログ回帰的な流れが来ている。わたしの中で。

だから、手書きの方が気軽に見返して、ほほ〜う……と楽しめそうなイメージがつきやすい。カテゴリー分け具合など、どのぐらいのゆるさでつけるかも自分で決められる。まあ、あとは実際に続くかどうかだけれど。

 

『家計簿を続けるコツ』みたいなものを検索すると、いかに手間をかけないか、面倒を排除するか、を書いたサイトが多い。けれど、それが続かない要因とは限らないかもしれない。自分の性質をふまえると、多少書き込む手間や時間がかかっても、見返したくなるもの、見返して楽しいもの、に近づけるべきなのかもしれない。

 

自分がどれくらいお金を使っているか知ることで、買い物への迷いの判断にしたい。いま、1万円を超えるものを買うときの不安とか罪悪感がもうすごいのだ。

お金というのは自分が持つ・使えるエネルギーのひとつだと思っている。自分がどれぐらいのお金を使っているのかがわからないということは、自分の持つエネルギーを見誤っているかもしれないということだ。だから、いざエネルギーを使うときに不安になる。

 

と、いうことでこれから自分を「気持ちいい」境地に連れて行くような家計簿を模索することとする。しばらく後に、『今度こそ、家計簿を〜リベンジ〜』を書いていたときは……お察しである。

お相手はおわびでした、また今度。

読書感想『正欲』

はいこんにちは。

 

『正欲』を読んだ。読書感想を書いてみたい。けれど、変な言葉でこの本からわたしが受け取ったもの、そしてこの本の内容を表現したくない。という矛盾を抱えている。

けれど、やっぱり読み終わった今のことを記録しておきたいので、読書感想というよりは読書体験記みたいになるかもしれない。

 

『正欲』。超絶話題になっていた本。そして、なんとなく敬遠していた本でもあった。だって表紙とタイトルでなんとなく感じたのだ。「ヤバそう。」

わたしは、作者の思想がモリモリになっている本こそ、読むのが好きだったりする。今だけのブームみたいなものかもしれないけれど。この本からは、なんだかそういう雰囲気を感じた。けれど、同時にそれがものすごく強そうなものだとも感じた。もしその思想が、自分の受け入れられるタイプのものじゃなかったら、自分を攻撃してきたとしたら、めった刺しにされて立ち上がれなくなってしまいそうな、そんな雰囲気。

 

そこからどうして読もうという気持ちに変わったかというと、あらすじの一文を偶然目にすることがあったのである。そして、この一文を読んだ瞬間、自分の中にあったある種の恐怖が、「ああ、これ読まないといけないやつだ」に一気に形を変えた。

『自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな。』

この先も一部文章を抜粋させていただくけれど、小説の内容には、極力触れない。

 

構造の話になるけれど、この本の最初の7ページがプロローグみたいなものになっている。この7ページを読んだ時、早々に頭を殴られた気持ちになった。読みながらニヤけた。「あ、これやばい本だ、めちゃくちゃおもしろい本だ」と思った。

もしちょっとでも気になっている人がいれば、この7ページだけ本屋で読んでみて、「おもしれー!!」と思ったら買ってみると良いだろう。

 

さて、わたしは本を読んだ時、お気に入りの文章を1つ決めることにしている。この本でお気に入りの文章は、これに決めた。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

『正欲』 248ページ

 

わたしも多様性という言葉に違和感があったんだよねー、とか、そんな”共感みたいなかたち”をしたペラペラな言葉なんて、それに近しい言葉も含めて、一切言いたくないと思わせる文章だった。うまく言えないけれど、すごい。言葉で、文章で、世の中に渦巻く空気やかたちないものを、どうして表現することができるんだろう。すごい。

 

わたしは、これから読んでみたい本と今までに読んだ本の整理にブクログというアプリを使っている。

この本を読んだ直後にブクログで書いたものは、後から見返したら、思っている以上に読んだ後の自分の気持ちがちゃんと書かれていた。読んだ後すぐに書く感想というのは、うまくまとまっていなくても、メモみたいな状態になっても、やっぱり大事だ。だから、ここにも書き写しておく。

 

「世の中に出回るスローガンみたいなものは、大多数のひとたちに都合がいいから出回っているのであって、本当に理解ができないものは認識すらできないし、大多数の人が見たくないものならばキチンと蓋をするから、そもそも出回ることなんてない。

多様性 でも、誰一人取り残さない でも、なんでもいいのだけれど、これがあるべき姿だとか、これが正義だと胸を張る人たちは、自分が間違ったことを言っているかもしれないとか、1ミリも思わないのだろうか。

っていう目で、普段無意識にいろいろなものを見ているかもしれないと思いました。これはわたしの正欲。この本を読んで考え方が変わったとか、深い教えを得たとか、そういうことは一切言いたくないです。たぶん、これもわたしの正欲。

でも、本当に、めちゃくちゃおもしろかったです。読んでよかった。」

 

『これは共感を呼ぶ傑作か?目を背けたくなる問題作か?』という言葉が帯にあった。わたしにとっては、目を背けたくなる傑作だったと思う。

 

読んでいる最中は、色々と考えた。もし、もし自分の隣に”自分にとって都合の悪いもの”がいたら。わたしはどうするんだろう。彼らは何を望むのだろう。わたしはたぶん、手を差し伸べられない。というか、手の差し伸べ方すらもわからないんじゃないか、とか。

でも、もし”自分にとって都合の悪いもの”がいたら、とかじゃなくて、もういるんだ。たぶん、ずっと居続けている。わたしはそれを認識できないか、見たくないものだからキチンと蓋をしているだけだ。意識すらしない、自分のことなのに、自分では認識できないレベルで。

 

わたしが人生のいろいろな場面で”どの岸”にいるのかわからないし、どの岸に属していようと「どうでもいいけどさ、」と思ってしまう。たぶんこれは、毎日に不自由をしていないがゆえに思うことだ。

けれど自分がどこにいたって、自分の対岸に、もしくは対ではなくても別の岸にいる誰かの正欲を害する存在であり続けているし、自分の正欲を害されている存在でもあり続けるんだ。

 

この本を読んでこう思った。って、スパっと言えたらカッコいいのになと思う。

わたしはいつだって自分の考えにも、文章にも、どこかに間違いがあると思っている。し、もし読んでくれている人がいるとして、読んでくれる人が自分と同じものを感じて、考えているだなんて全く思えない。いつも怯えているし、信用していない。だから文章が長くなるし、余計なエクスキューズが入り続ける。

今日もまたこんなふうにフニャフニャしたことしか言えないし、この本を読んで自分に起こった変化みたいなものを自分が言葉にしたら、それは間違っている。と思う。気がする。

 

だから、わたしが何かを語るよりも、いろいろな人がこの本を読んだらいいと思う。いろいろな人の感じたものを、上手な言葉になっていなくても、破綻していても、矛盾していても、聞きたいと思う。おもしろいと思わなかった人は、どんな目でこの世界を見ているんだろう。

 

と、いう感じでした。内容について書くよりも、こういう読書体験記の方が書いていて楽しいかもしれない。今後もそうやって書いてみようかな。

お相手はおわびでした、また今度。

読書感想『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』

はいこんにちは。

 

少し前に、東洋特有とされるような思想とか、哲学とか、考え方に興味を持ったタイミングがあった。そのいちばん最初のきっかけはあまり覚えていないのだけれど。

それで、まず読んだのは『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本。実はそのもっと前に西洋編も読んでいたのだけれど、それと比べて東洋編が想像以上に、メチャクチャ面白かったのである。

www.kawade.co.jp

 

東洋思想・哲学に対する興味に関しては機会があれば書くとして、その流れで手に取ったのがこの本だった。わたしにとってはなかなかボリュームのある本で、そうあるべきだよなあと身に沁みること、なんか言っていることはわかるということ、ちょっと難しいと感じたことが全部あって、なかなかきれいにまとめられないというのが正直な感想である。

 

けれど、本を読むとき、現在の自分に響いたことばや”おしえをことばにしたもの”をちょっと反復してみるだけで、現在の自分に受け取れるものとしては十分だとも思うのだ。

わたしはたくさん本を読む方ではないけど、本を読む時は一通り読んだ後に、あそこよかったなとか、あのフレーズはすごく覚えているな、というようなお土産みたいなものを一文でも見つけられたらいいなと思いながら読んでいる。

 

作者が綴ってくれた長い文章の全てを一言一句覚えていられるわけはないのだけれど、色々な内容を読んでいく中で、最後まで大切に握っていたままだった部分はどこだったのかなあというのを最後に見つめるのが、とても楽しいのだ。

ある程度の文章としてどこかに本の感想を書くのは初めてだけど、そんな感じで書いてみることにする。

 

ということで、今回の課題図書はこちら。

[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド

www.php.co.jp

 

この本からもらった言葉は2つあって、まずひとつめはこちら。

生きている限り、私たちは常に何かをしています。しかし、皆さんが「私はこれをやっている」「私はこれをやらなければならない」「私は何か特別なことを成し遂げなければならない」と思っているうちは、実は何もしていないのです。

『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』 93ページ

 

これは修行について書かれた文脈で書かれていた言葉なのだけれど、なんだか、わかるようで、わからないと思うところもある言葉だった。

仏教とか禅というものに対してものすごく解像度が低い状態だから、適さないことを書いてしまうかもしれないけれど、仏教や東洋的な思想においては、実際にやってみる中で気がついたことを重んじている印象がある。だから、たぶんこうやって、言葉で頭で「うーんうーん」と考えているのは、「そうするべきではない」と言われてしまいそうなものだけれど。

わざわざ言葉という形で表現するまでもなく、意識すらしないレベルでごく自然に行っていることが”(修行を)やっている”こと、なんだろうなというのは、うまく言えないけど、伝わってくるものがある。

 

けど、それってやっぱりよくわからない。だって、自分は体づくりのために毎日走ってます!という人は、”実は何もしていない”ことになるの?って思ってしまう。そこに目的や期待みたいなものが入ってきた途端に、修行ではなくなってしまうのかな。

自分が何かをしていることを、旗みたいに掲げていたりとか。あとは、たとえば「〇〇のために何かをやっていますか?」と聞かれたとして、スムーズにでてくるような答えも『実は何もしていない』カテゴリーに近いのかもしれない。なにかしらの行動ではあるけれど、それは修行ではない、みたいな。

“何かしらの行動すべて”と”修行”を隔てる何かがたぶんあって、それは実際にその場に立ち続けてみないとわからないものだし、どんぴしゃで言い表せる言葉は存在しないような気がする。

 

もうひとつはこちら。

道元禅師によれば、料理をすること、つまり食べるものを用意するということは、準備ではなく修行そのものなのです。料理というのは、誰かのため、あるいは自分のために単に食事の準備をすることだけではなく、自分の誠意を表現することでもあるのです。ですから、皆さんが料理をするときには、台所における自分の活動の中で自分自身を表現しなければなりません。時間をたっぷりとって、心に余計なものを持たず、何も期待せず、ひたすらそれに取り組むのです。ただ料理だけをするべきなのです。

『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』 102ページ

 

 

心に余計なものを持たず、何も期待せず、ひたすらそれに取り組む。

これは、ひとつめの言葉でよくわからないと思っていたことを、たぶん少しだけ説明してくれている。そしてまさに、自分がこうならなくてはと思っているポイントのひとつを突かれている気分になった。そうなのだ、余計なことを考えすぎてしまうし、いろいろなものに期待をしてしまっているんだと思う。

 

どうすれば何かに期待せずにいられるようになるのだろうっていうことは、もう少し考えてみたいから今は置いておくとする。

もうちょっと別の言い方をしてみると、先のことを考えすぎてしまうってことなのかもしれない。「失敗したくない」とか、「後で困りたくない」みたいな。行きすぎた危機回避行動なのかな。今を生きるとか、心配事の9割は起こらないみたいに言うけれど、自分の中で思考実験的に”危機”を作り出してしまっている気がする。

『時間をたっぷりとって、心に余計なものを持たず、何も期待せず、ひたすらそれに取り組む』、これが、核とまでは言い切れないけれど、すごく大事なポイントなのだと思う。

 

たしかに、夕飯を作っている時に次の料理時間をイメージしていることなんてない。持ち越した食材について考えることぐらいはあるかもしれないけれど。それに、おいしいと言ってほしいとか、感謝してほしいとか思ってしまうとだいたい苦しいことになる。それはたぶん余計なものなんだと思う。

 

と、とにかく感じたことを書こうとしてみたのだけれど、うーん、やっぱり言葉でこの本の感想を表現するのは難しい。この本で感じたなにかを表現しようとしたら、いちばんいいのは、まずは坐ってみることなんだろうな。

 

一冊目が偶然すごく難しい本になってしまったような気がします。

お相手はおわびでした、また今度。